残念なことに私は同行できなくなってしまいました。
 ここのところ雪の降る回数も少なくなり、道の端に雪が残る程度になった晴れた日の夜明け前、花梨は早起きして和仁の邸に訪れた。まだ眠たそうな牛飼童に無理を言い、牛車に乗って糺の森付近に向かおうとした直前、時朝がいきなりそう告げたので和仁は固まった。基本的に外出しない主の懇願もあり、朝方でも人通りの多くなる洛中は牛車で進むことになったのだが、沓を履いて乗り込んだ途端、時朝はまるで図ったかのように二人の前から姿を消したのである。

「出仕せねばならなくなり……申し訳ありません」

 邸にこもりがちな主の仕事を引き受けていることもあるので、たとえそれが嘘であっても時朝を引き留めることはできなかった。まさかふきのとうを探す役目を担わされるとは思っていなかった和仁が呆然としている横で、花梨は相変わらず楽しそうに「残念ですけど、私たちだけでも行きましょうか」とにこにこしていた。

「今日は一日晴れそうですね。糺の森は久しぶりに行くけど、雪は解けてるのかな」

 独り言を言い牛車に乗り込む花梨の後ろに、和仁は溜息をつきながらのろのろと続いた。多少は身体を動かすかと思い、汚れてもよい冬用の群青の狩衣は着てきたが、正直ふきのとうを探せる自信はない。ただでさえ体力のない方で、生えそうな場所を勘で特定するのは無理だし、雪の中に隠れていたらなおさらだ。花梨もまた男子のような薄萌黄の狩衣を着ていた。彼女は常に動きやすい服装を好むので、和仁には見慣れた姿であるが、ほかの女どもが見たらぎょっとすることだろう。

「雪を掻き分けてまで、ふきのとうを探したいとは思わぬぞ……」

 低い声で言うのを完全に無視し、花梨は動き出した牛車の物見から外を楽しそうに眺めている(一見控えめな彼女には、こういう謎に強気なところがある)。夜明け前なので辺りは薄暗く、さすがにまだ役人たちも出仕の準備中だろう。いくら貴族たちに比べれば朝が早い牛飼童と言えども、寒々しい空気のなか洛北方面まで歩かせるのは酷に思われた。とはいえ、外出するなら早朝にしてほしいと頼んだのは和仁自身なのだが。

(そもそも、ばっけが何かと問うた私が馬鹿だった)

 今更なので、これ以上不満は口にしないよう、気を取り直すことにした。
 目の前にいる花梨はいつもの柔和な笑みを浮かべ、外の景色を見つめて黙っていた。彼女は無口ではないが、それほど多くは語らない少女だ。和仁があまり話をしたがらないから、彼女が気を遣って口を開くことが多いような気がした。
 謹慎を命じられ、罪の意識を抱いてから、和仁は他人との会話を恐れていた。特に貴族たちとの会話は嫌だったし、それを避けるために時朝に代役を頼んでいた。そんな中、階級を持たない花梨との他愛もない会話は、神子の清浄な気に自分の気が混じり合うことに後ろめたさを抱く一方、気楽で、深い安らぎをもたらすものだった。感情が荒ぶりやすかった和仁は、普通に会話する方法がよく分からなかったから、まるで人との話し方を改めて習っているような気持ちにもなった。
 花梨は優しい。とても優しく、慈悲深い。目に柔らかく映る素朴で愛らしい外見のみならず、まとう空気がそう言っていた。それは、神聖な力を宿した神子だからという理由のためだけではないのだと、彼女と関わり始めてようやく分かってきた。花梨という少女は、生来美しく健全な心を持つ人間なのだ。
 そんな人が近くにいて、同じ車の中にいて、和仁はなんともいえない心地になる。手を伸ばせば届いてしまう距離に、自分の想う人が静かに座し、生きて呼吸をしていることは、どれだけ尊いことだろうか。今、花梨とこうしていることが、和仁にはただ幸福だった。それは、今は口に出して伝えてはいけない幸福だった。まだそうするには早いし、それが正しいことかどうかもよく分からなかった。
 横顔を見つめていると、視線を感じたのか花梨は和仁を見た。

「私の顔、なにかついてます?」

 はにかみながら言われ、和仁は目を伏せた。

「いや……なんでもない」

 花梨はそれ以上何も訊かなかった。







 しばらくして牛車が止まった。糺の森に着くには早いのではないかと考えた矢先、外から牛飼童が声をかけてきた。

「この先は雪が多すぎて無理そうです」

 簾を巻き上げて外を見ると、糺の森方面に続く道は雪で埋もれていた。木々が多くなってきたせいで陰が多く、雪があまり解けていないらしい。目指す方向はふくらはぎくらいまで積もっていて、これまでの道は何者かが雪かきをしていたのか車輪が回ったらしいが、牛もさすがにこの先に進むのは嫌がっている様子だった。
 降りた場所は、かろうじて空の下に開けてはいるものの、まだらに草が見えているまだ雪の覆う原野で、山や沢など湿った場所を好むふきのとうが生えているとは少々考えにくい土地だった。歩けはするだろうが、森の方面に向かうほど足首が覆われていくので、この先には行きたくないな、と向こう側を眺めながら嘆息する。

「この辺で散策するだけにしないか、神子」

 半ば投げやりに言うと、ふきのとうのことはあまり気にしていないのか、嬉しそうに花梨は頷いた。

「今日は暖かくなりそうだから、散歩にはよさそう。あっという間に雪も解けてくれそうですね」

 和仁としては、温暖だといってもまだ冬なので、それほど外に長居したくなかった。しかし、以前来たこの辺りの風景を懐かしんでいる花梨をさっさと戻らせるのも気が引け、牛飼童に、どのくらい時間がかかるか分からないからと少しの駄賃をやり、都方面に戻って少し休憩してこいと言い渡した。牛飼童は、そんなのは当たり前だというふうに、牛車と牛を置いて、元来た道を戻っていった。
 このあたりに知り合いが来ることはまずないので、花梨と二人でぶらぶらするのも悪くはないと思った。

「もうじき春が来そうですね」

 雪の下から覗いている緑の草を眺め、嬉しそうに言う花梨を見て、和仁もつられて微笑した。

「そうだな」
「日陰に行ったら、ふきのとうがあったりしないのかな」
「さあな。時朝なら慣れているし、勘で分かるだろうが、私はあいにく山菜採りに慣れていない」

 もとよりあまり探す気がないのだ。

「うっかり沢などに落ちても危険だ」
「まあ、そのときはそのときですよ」

 たくましいことを言い、少し雪が深くなる林の方に歩き出す花梨に、驚きではなくもはや諦めを覚えつつ付いていく。うっかり沢の中に転び、冷たい雪解け水でずぶ濡れになったら、何もないこのような場所で一体どうしたらいいというのか? いくら暖かくなりそうな天候だといっても、濡れた身体に雪の冷気を宿すこの気温は凶器だぞ。そのときは体温で温め合う? 馬鹿を言え、花梨よりも先に、身体の弱い私が死ぬ。
 独りごちていると、急に花梨が「きゃあ」という声を上げたものだから、和仁は彼女が沢に落ちたのではないかと青ざめた。咄嗟に花梨を見る。彼女は雪の上にうずくまって、何かに視線を注いでいた。
 ひとまず花梨が事故に遭ったわけではないことに安堵し、どうしたと後ろから覗き込む。すると花梨はきらきらした目で振り返り、見て、と何かを指差した。

「あった!」

 えっと声を上げて和仁は花梨の指先を見る。彼女の言うとおり、そこには半分雪に身を隠したふきのとうがあった。

「こ、こんなに早く見つかるものか?」

 彼女ほどふきのとうが欲しいわけではないが、運の良さに動揺してしまう。これも神子ならではの力なのだろうか。雪原に潜むふきのとうを見つけやすくしてやるという大いなる意志があるとしたら、龍神は焦点を絞りすぎている。
 花梨は壊れ物を扱うように指先で優しく雪を除け、「ごめんね」と言いながらふきのとうを採った。両手に転がし、口から白い息を吐きながら嬉しそうな声を出す。

「すごい。本当にばっけ味噌が作れますね。でも、もう少し欲しいな……。まだこの下にあるのかしら」

 ふきのとうがあった場所を見る限りでは、今取り上げた一つしか姿はなく、あとは雪に覆われた地面があるだけだ。ふきのとうは近場に群生している可能性があるので、まだあるかもしれないと和仁は素直に教えてやった。

「探してみますね」

 しゃがみ込み、両手を使って雪を掘り始める花梨の細い指が、瞬く間に赤くなっていく。和仁はいても立ってもいられず、隣に同じくしゃがんだ。

「私の手の方が大きい。掘るのも早い」

 雪に手を突っ込むと、刺すような冷たさが襲う。時々手を休ませなければ、すぐに凍傷になってしまうだろう。
 ふきのとうを探そうと意気揚々誘ってはいたものの、和仁がそこまでするとは思っていなかったらしく、ざくざくと雪をかき分けるのを見て花梨は隣で慌てていたが、和仁は無視して彼女のために雪を掘り続けた。